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戦後、ノックダウンの下請けから純国産へ~エンジンの話(4)~

自動車エンジンの歴史…いよいよ、戦後で日本が苦労して不遇の時代から抜け出していくまでのお話に入っていきます。今の自動車業界を見ていると、日本のエンジンは優秀で世界にも名高いイメージがあるかもしれませんが、戦前、戦後付近はそうでもなかったようです。むしろ、国内でも不評が出てしまうほどだったのだとか…。

ここでは敗戦し、そこから復興、復活を果たすまでの日本の姿を中心に追ってみていくことにしましょう。

日本の自動車産業の夜明けとは!?

日本の自動車産業の夜明けとは!?

○敗戦直後は思ったように車も生産できず…

日本は、第一次世界大戦(1914-1918年)後、アメリカ・イギリス・フランス・イタリアと肩を並べる列強になったが、日本における自動車産業は黎明期であり1925年にフォードが、1927年にGMが全ての部品をアメリカから送り日本で組立てるコンプリートノックダウン生産を行い始めました。遅れること1936年にトヨダ(現:トヨタ自動車)がフォードやクライスラー、GM並みの3400ccエンジンを搭載したAA型乗用車を発売した。1935年から販売されたG1型トラックと共に、デザインはクライスラーを真似て、エンジン構造はGMシボレーを真似る事で開発されて行った。しかし第二次世界大戦(1939-1945年)の勃発の為、自動車エンジン開発の歴史は停滞するのである。敗戦直後は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のマッカーサーにより、国内での自動車生産を制限されてしまいます。その当時になんとか日本が国内生産をしていたものと言えば、自転車にアシストエンジンの付けた原動機付自転車の程度でした。

しかし、それでも日本は国産の車両の生産を一部で開始しようとします。日産自動車はダットサンDB型(エンジンは722cc)、トヨタはSA型小型乗用車(エンジンは995cc)を発表、しかし、欧米と比べると、その質は差が大きく、結果につながりません。

トヨタは戦前のGMやフォードのノックダウン生産に対しても賛同せず、独自の路線ひた走っていましたが、戦時中の自動車開発ストップが影響。また1からの再出発となり、苦労することになります。

その一方、政府は素早い復興(特に経済面で)のためにも、再び各社にノックダウン生産をはたらきかけようとします。というのも、自国での生産、技術が難しい以上、エンジンやその他の技術を外国から取り入れようとしたのです。今からではとても考えられないほど、日本はピンチに陥っていたのですね。

戦前に作られていた、トヨダG1型トラック

戦前に作られていた、トヨダG1型トラック

AA型(排気量3400cc)は戦前に作られた

AA型(排気量3400cc)は戦前に作られた

○ノックダウン生産、そして完全国産品への移行へ

政府の働きかけもあり、日産、日野自動車(以降、日野と表記)、そしていすゞはノックダウン生産を開始します。とはいっても、ただ生産していただけの戦前とは違い、今回の目標はあくまで技術供与と国産化、そして経済的な復興が目的です。それだけに3社は必死にもがき続けたと言われています。

日産が組み立てていたのは、イギリスの自動車メーカー、オースチンのA40という車両です。直列4気筒エンジンで、排気量は1.2リッターほど。国産のダットサンDB型が722ccほどだったことを考えると、かなり大型のエンジンだったと言えます。その後、A50ケンブリッジへとモデルチェンジして、排気量は1.5リッターになりました。

日産は、これにもスムーズに対応し国産化に向けた技術を身につけていくことになります。

日野自動車はフランスのルノー公団のノックダウン生産をしていました。4CVと呼ばれる車両で、748ccの直列4気筒OHVエンジンを搭載、エンジンはリアにあるという車両です。当時、フランスで大人気となっていたこの車両は快適な乗り心地と社内の広さが人気に。日本では車両代金の安さがウリとなり、タクシーなどに多く利用されていました。

価格は73万円より。A40と比較しても、かなり安価でありながらもモノの良さが人気となった車両です。

そして、いすゞはイギリスのルーツ・グループのノックダウン生産に勤しみます。ルーツ・グループは、イギリスにあった自動車会社を傘下に置く大きなグループでした。いすゞはその自動車会社のひとつヒルマンの、ヒルマン・ミンクスを生産します。1.3リッターの直列4気筒SVエンジンで、その後は1.5リッターのOHVエンジンへと進化しました。

イギリスのメーカー、オースチン

イギリスのメーカー、オースチン

クライスラーの古いエンブレム

クライスラーの古いエンブレム

こうやって見ていくと、戦後はアメリカではなく、ヨーロッパの技術を学んできたということが分かります。その一方で、アメリカ車の研究を続けていたのは、現在のトヨタ自動車でした。

トヨタは1955年にクラウンを発表、現代でも人気のひとつになっている乗り心地の良さや頑丈な作りで人気を博すことになります。1.5リッターの日野ルノーと合わせて、タクシー業界で用いられるようになりました。直列4気筒のOHVエンジンで、ノックダウン生産に負けないくらいの良い製品へと進化していったのです。

そして、本来のノックダウン生産の意味は、「部品を輸出して現地で組み立てること」を指していますが、この頃には、国産で部品が製造できるまでに成長していました。いすゞは1957年、日産や日野は1958年には完全国産化に成功し、外国産車から自動車技術を学ぶことに成功したのです。

○徐々に現代につながる国産車が発表されることに!

ノックダウン生産から学んだ技術は、徐々に国産車につぎ込まれ、新車が発表されることになります。

まず、日産はダットサン(前身)の車両の開発に余念がありませんでした。1960年にはセドリックがデビュー。国産の1.5リッターOHVエンジンが搭載され、4段のトランスミッションなど、当時では驚きの技術が搭載されていたと言います。

日野は1961年にコンテッサ900を発表。その後、エンジンは1.3リッターまで大きくなり、ボディラインは優雅で繊細なのが特徴です。その後はトヨタ自動車と提携、自動車の生産をやめ、現代のようにトラックやバスの製造を専門で請け負うことになります。

そして、いすゞは1962年にベレルを発表。当時はガソリン車がほとんどだった中、ベレルはディーゼルエンジンも採用していたのが特徴です。しかし、ディーゼルエンジンの心地悪さが目立ってしまったため、色々な意味でスタートダッシュに失敗してしまいます。

徐々に体制が整ってきた翌年にはベレットを発表、名車として歴史に名を刻むことになるのでした。

1945年の終戦から実に15年以上、やっと日本の自動車技術は欧米の先進技術に追いつくことになるのです。

どんな技術にも失敗や挫折があります。その失敗を生かすかどうかを、当時の日本は求められていたのではないでしょうか。ノックダウンから技術を学び、さまざまな研究を重ねた日本はエンジン性能もアップし、「国産」と胸を張って言える製品を作り出しました。

やっと、ある意味で「スタートライン」に立った日本の自動車業界。これから徐々に現代へと近づいていきます。

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