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WRCと日本車

F1と並び世界最高峰のモータースポーツと評されるWRC(世界ラリー選手権)。これは世界のあらゆる公道を使って世界一速いドライバーを決めるエキサイティングなスポーツです。昨年からはトヨタが復帰したこともあり、日本でもWRCを開催しようという機運が高まっています。

このような経緯もあり、2019年からWRC開催に向けた動きが活発化しています。そこで今回のコラムではWRCと日本車の関係を振り返ってみたいと思います。

WRCと日本車の関係について

日本の自動車メーカーは昔からWRCとの関係が深く、WRCが創設された1973年から日産や三菱がサファリラリーなどに参戦しており、その活躍は日本のクルマ好きが知るところとなりました。そしてそれと同時に「ラリー」という競技の存在も認知されました。

1980年代に入り、WRCでグループB規定が採用されるようになると、日産・240RS、マツダ・RX-7やトヨタ・セリカなどが参戦するようになりました。中でもトヨタはAW11型MR2をベースにした「総合優勝を狙える」グループBマシン、222Dを開発しており、80年代はまさに日本車がWRCという世界レベルの舞台に足を踏み入れた時代と言って良いでしょう。

しかしながら、アウディ・クワトロの参戦により「4WD以外は勝てない」状況になったWRCは、4WDのラリーカーを持たない日本メーカーにとっては勝つことはとても難しいものでした。また、日本車には600馬力とも言われた欧州メーカーのパワフルなエンジンに対抗できるものもありませんでした。

加えて、1986年ポルトガルラリーにおける観客を巻き込んだ死傷事故や、同じく86年にツール・ド・コルスで起きたヘンリ・トイボネンの死亡事故によりグループBの危険性が問題視され、グループB規定が1986年限りで終了することが決定し、222Dも実践に投入されることも無くなってしまったのです。日本の自動車メーカーにとっては苦しい時代でもありました。

グループBが廃止されたのち、WRCはグループAの時代に移行します。クルマ好きなら知っているであろう、日本車のWRCにおける黄金時代です。グループA規定が始まった直後はラリーの王者ランチアがタイトルを独占していましたが、トヨタがセリカでランチアの牙城を崩し、1990年に初のドライバーズタイトルを獲得しました。またグループA規定に変わったことでトヨタ以外の日本車メーカーもWRCに本腰を入れ始めました。

三菱はギャランVR-4をラリーカーに仕立て、スバルは技術的に不利な面が多々あったレオーネに別れを告げ、社運をかけて開発されたレガシィで参戦。またマツダは323(日本名ファミリア)で、ライバルの2リッターに比べ非力な1.6リッター(途中から1.8リッターに変更)ながらも抜群のハンドリング性能で戦いを挑み、日産はコンパクトなボディにハイパワーな2リッターターボエンジンを搭載したパルサーGTI-Rを新たに開発しWRCにチャレンジしました。なんだかこうして書いているだけでワクワクしてきますね。この時代を生きてみたかったです……。

1993年ニュージーランドラリーで優勝したグループA仕様

1993年ニュージーランドラリーで優勝したグループA仕様
スバル・レガシィRS

しかしながら、日産とマツダは程なくしてWRCから撤退。そしてついに二台の伝説的マシンがデビューします。スバル・インプレッサWRXと三菱・ランサーエボリューションです。二台はともにボディサイズが大きく運動性能の面で不利だったレガシィとギャランから基本的なパワートレーンをコンパクトなボディに移植し、WRCの頂点を目指したモデルです。

インプレッサは表向きにはレガシィと軽自動車の間を埋めるエントリーモデルとして開発されており、WRXの開発だけに集中させないようにするため、富士重工業の車両実験部はWRXの存在を最初は知らされていなかったそうです。しかし、インプレッサの設計段階から当時WRCのワークス活動でタッグを組んでいたプロドライブと連携しながら作業を進めていたため、インプレッサはWRCにデビューした時から極めて高い戦闘力を持っていました。

デビュー戦の1993年1000湖ラリー(フィンランド)では、ライトポッドの形状の煮詰めが甘くフロントガラスが曇ってしまうというマイナートラブルがあったものの2位を獲得。翌年にはWRC初優勝を飾り、1995年にはマニュファクチャラーズタイトルとドライバーズタイトル(ドライバーはコリン・マクレー)のダブルタイトルを獲得しました。WRC参戦前、欧州ではトラクターと同じ店で販売され、ファーマーズカーと揶揄されたスバルが、このとき「公道で世界一速いクルマ」になったのです。涙なしでは語れませんね。

対してランサー、WRC投入直後はスバルと比べると苦戦気味でしたが、熟成が進むに従い戦闘力が上がり1995年にWRC初優勝を飾りました。そして96年にはランサーのアクティブデフの熟成が進んだこともあり、念願のドライバーズチャンピオン(ドライバーはトミ・マキネン)に輝きました。まさに日本車全盛期。日本でもWRC人気が爆発しました。

この時代に日本でWRCが開催されていたらとんでもない騒ぎになっていたでしょうね。
生でインプレッサやランエボのグループAマシンが全開走行する姿が見られたらどんなに幸せだったか……。

1994年の自動車専門誌に掲載されたWRCの記事

1994年の自動車専門誌に掲載されたWRCの記事

WRCでの好成績がベース車両のカタログで紹介されている

WRCでの好成績がベース車両のカタログで紹介されている

1997年からはWRカー規定がスタート。グループA規定をベースにさらに改造の自由度が上がりました。スバルとフォードが初年度からWRカーを導入。スバルはグループA時代に悩まされていたインタークーラーの大きさと位置のハンデが無くなり、さらに全幅も広がったことで安定性も格段に上がりました。

対して三菱は「市販車で競技をする」ことをモットーにしていたため、グループAのままで戦うことになりました。その結果、ドライバーズタイトルは三菱、マニュファクチャラーズタイトルはスバルが獲得し熾烈な戦いが両者の間でこの先も続いていくと思われました。

しかしながらWRカー規定になったことで新たな強敵が現れます。トヨタがカローラをベースに、フォードがフォーカスを、さらにプジョーが206をベースにWRカーを開発し始めたのです。特にフォーカスは横置きエンジンに縦置きミッションを組み合わせるという独創的なレイアウトをとっており、新時代を予感させました。

トヨタはカローラWRCで1998年からWRCに復帰し、1999年にはマニュファクチャラーズタイトルを獲得。しかしトヨタは1999年限りでWRCから撤退し、F1に参戦することを決定。カローラWRCは短命に終わりました。

フォーカスはその独創的な技術を採用したが故にデビュー直後は苦戦しましたが、コリン・マクレーやカルロス・サインツら強力なドライバー陣にも助けられ、タイトル争いにも食い込みました。しかしマクレーは激しいクラッシュをフォーカスで何度か演じ、フォーカスはボディ強度が他車よりも優れていると言われていたことから「マクレーはフォーカスに乗っていなかったら死んでいた」とまで言われています。

確かに2001年のGBラリー(イギリス)でのクラッシュは非常に印象的でしたね。5速で曲がっている最中に急にクルマが宙を舞い始めたときどういった気持ちになるのでしょう……

プジョー206WRCはそのコンパクトな車体がラリーではとても有利に働き、2000年から2002年まで3年連続でプジョーがマニュファクチャラーズタイトルを獲得。プジョーのエースドライバー、マーカス・グロンホルムにも2度のドライバーズタイトルをもたらしました。

当時のWRカー規定ではベースとなる車両の全長は4000mm以上と定められており、206はこの条件を満たしていなかったためなんと前後バンパーを拡大して4000mm以上の全長を確保したエボリューションモデルを販売し、ホモロゲーションを獲得したという逸話も残っています。

ちなみにこの手法はのちにチェコの自動車メーカー「シュコダ」が、同じく非常にコンパクトなクルマ「ファビア」でホモロゲーションを取得した際にも用いられています。こうした強力なライバルの出現によって、三菱とスバルは次第に苦戦を強いられてきます。

グループAに見切りをつけた三菱はWRカーを開発しますが、WRカーの開発はライバルの方が進んでいました。三菱は2001年を最後に優勝から遠ざかり、2001年末には優勝請負人トミ・マキネンがスバルに移籍。2003年にはWRC活動を一時休止してマシン開発に専念したのち2004年に復帰しますが、リコール隠し問題など三菱自動車の苦境もあり2005年いっぱいで撤退。2005年のWRC最終戦オーストラリアで2位を獲得し、希望の光が見えた矢先の撤退でした。

スバルは2001年、2003年とドライバーズタイトルを獲得しますが、2003年からWRCにフル参戦を始めたシトロエンがセバスチャン・ローブという天才とともにスバルに戦いを挑んできました。どのような路面状況でも天才的速さを見せ、なおかつミスをしないローブとそれに応えるシトロエン・クサラWRC。スバルはおろか、フォードなど他のメーカーも太刀打ちできませんでした。

2005年はシトロエンが使用するミシュランがBTOというリピートステージ専用のタイヤを開発したのに対し、スバルが使用するピレリタイヤは非常に限られた路面状況でしか速さを見せることができず、またマシンに関しては拡幅されたボディにあわせた足回りの設定を誤りハンドリングに難を抱え、とてもシトロエンに対抗できる状況ではありませんでした。2006年以降もスバルは足回りの設定に問題を抱え、さらにダンパーにも問題が頻発し苦戦が続きます。

2008年、それまでWRCの下位カテゴリーJWRCで強さを見せていたスズキがSX4でWRCに参戦し、スバルはハッチバックになったインプレッサで復活を目指しますが両者ともシトロエンに打ち勝つことは出来ず、2008年シーズンを最後に日本車メーカーはWRCの舞台から姿を消します。このような状況もあってか、2008年からは日本では地上波でWRCの番組は放映されなくなりました。

1990年代の日本車黄金期と比べると雲泥の差です。WRC自体もたった2メーカーの戦いとなり、盛り上がりに欠けてしまいました。その後WRCはBセグメントの車両をベースにしたラリーカーで争われることとなります。Bセグメントのコンパクトカーはほとんどの世界的自動車メーカーならば生産しているため、参戦メーカーが増えると思われたからです。その思惑通り、フォルクスワーゲンなど新規参入メーカーも増え、WRCはだんだんと活気を取り戻したのです。

そして2017年、ついに日本メーカーがWRCの舞台に戻ってきました。トヨタが18年ぶりにヤリス(日本名ヴィッツ)とともにWRCに復帰したのです。チーム代表にはかつて三菱そしてスバルで活躍したトミ・マキネンが就任。往年のファンにはたまらないですね。

ヤリスWRCはデビュー当初から非常に高い戦闘力を持ち、なんとデビュー2戦目で優勝を飾りました。そして2018年シーズン、第10戦トルコ終了時点でトヨタのオット・タナックがドライバーズランキングで2位、マニュファクチャラーズランキングではトヨタが1位と、ダブルタイトルを狙える位置につけています。参戦開始から2年目でタイトルを争えるようになるとは……さすがはトヨタ。

トヨタのWRC復帰によってラリーをテーマにした映画も作られるようになった

トヨタのWRC復帰によってラリーをテーマにした映画も作られるようになった

最後に

先日トヨタの豊田章男社長が「スバルと三菱にもWRCにカムバックしてほしい。支援はする。」というような発言をされていましたが、今回のコラムを書いているうちに筆者自身も二社のWRC復帰を強く望みたいと思いました。

土煙を上げながら全開で走るインプレッサやランエボの姿がやはり皆忘れられないと思うのです。さらに言えば、他の日本車メーカーにも戻ってきてほしいと思います。

クルマの電動化が進む今、フォーミュラEなど電動化技術を磨くことの出来るカテゴリーに出場しようと思うのは当然かもしれませんが、果たしてフォーミュラEでチャンピオンを獲得したからといってそのメーカーのクルマを買いたくなるでしょうか?…私はそうは思いません。クルマ好きのハートを揺さぶるようなモータースポーツの姿とは何かを自動車メーカーにはきちんと考えてもらいたいですね。

それではトヨタのダブルタイトル獲得と、来年日本でWRCが開催されることを願ってこのコラムを終わりたいと思います。最後まで読んでくださりありがとうございました。

執筆:名古屋大学自動車部

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